ピアスよ、お前のせいで二十日大根も壊滅状態になったな。 別にお前の脱糞姿が見たいわけではないけど、いたしたいなら肥料にしてくれないかい。
昨今、甘い実の生る柿木が少なくなったと感じる。これもまた酸性雨の影響だろうか、と適当に思い耽る秋の日曜。

快楽がカネを産むか カネが快楽を産むか

兄弟リンクに(写真生活)を追加しました。 羅列する写真 注釈のない写真 ホントに写真しかありません。
管理人は私なんですけどね。
キミたちはキミたちの歩幅で歩きなさい。
新宿ゴールデン街の看板ネコは呼び込みに余念が無い。

切り裂かれた街の底で空の青さを忘れてしまっている。
オンブが掴んで離さないのはネコじゃらし。この後咥えてどこかへ消えた、3本目。

なんだか釈然としないのだ。 多かれ少なかれニンゲンは、他の生命の主張を無視して繁栄しているはず。少なくともそうすることでここまでやってきた。 それを省みず土地を欲しがったのは皆同じである。

気になって気になってしばらく見上げてしまいました。
しとしと降る秋雨もなかなか風情があってよいものですが、こう際限なく続くと気持ちまでジメーっとしてしまう。
数日前のこういう光景が待ち望まれる雨降りの月曜日。
散歩中にみかけたネコです。変わった模様の顔がステキ、マスクかぶって怪傑ゾロみたい。 しばらくにらめっこしてたら後からゾロゾロ出てきました。

やはりお日様は偉大であるなぁ、布団も干せるし暖かい。 カメたちも定番のスタイルで甲羅干し。

カメ達の水槽を眺めていたら殺風景なのが気になったのでオモチャのアヒルを入れてあげた。 しばらくして覗いたらクメボーがこの有様。
さらに寄ると
こう
只今深夜一時を回ったが日が暮れてから今までこの姿勢は変わってない。
mixiというコミュニティで仲良くしていただいてるアカネさんのイラスト。 ホントに好きで、勢いでお願いしたら送ってくれました。 アカネさんの描くイラストには毎回気持ちをくすぐられる。
ここにはないですけど「セボンスター買って」というイラストもたまらないものがあるのです。


なにせドトールがお気に入りでどの程度気に入ってるのかといえば、持ち帰り用のプラ製カップを本当に持ち帰えるほど。そいでそのカップを使って自宅で珈琲を飲む。洗ってまた使う。 あくまでも気持ちの問題で、稀代の貧乏性というわけではない。
写真はドトールとは全く関係ない行きつけの喫茶店。 
ここ2日ほど姿の見えなかったピアスが今晩ひょっこり顔を出した。 なんだか憔悴しきった様子で座布団で丸まりピクリともしない、旅にでも出てたのだろう。 今日だけ特別にそこで寝かせてやる。

一方的なラブコールで勝手にリンクまでさせていただいてる(ギ装置Rの右脳と心中)の装置さんと面会してまいりました。 ファーストコンタクトから缶ビールを離さないその姿勢、滲み出る知性、予想通り魅力的な方でした。 カメラを構えるとパッと演者の顔になるところは流石徹底してる。


ねぇオンブ、カメはそんなに美味くないとおもうよ。
誕生日のお祝いに亀をいただいた。二匹。
こいつ(ヨーダ)
と

こいつ(クメボー)。
で、どうなったかといえば・・・・
オンブにいびられ・・・・

ピアスに転がされたりしてるわけです。
長生きしてくれよ、亀たちよ。
近頃、帰宅して縁側にコイツの顔があるとホッとする。いかんな、かなり侵されてる。

これだけ口がデカけりゃ蝉だってくえるわな。ネコの欠伸は豪快でよろしい。

リアルな眼差しだ。

虎視眈々と我が家に上がり込む隙をうかがう二匹の図。ダメよダメダメ。
ところが姿を消したとおもって安心していると何故か押入れから出てきたりする。どこかにネコ道があるらしい。
早急に調べないと大変なことになりそうだ。
孤高のノラ猫ピアスを思い切って接写してみた。 上手い具合に撮れはしたけど直後に引っ掻かれたのは言うまでもない。 余談だけど最近オスだと信じきっていたピアスに玉が見当たらないのである。

こちらの写真が自宅パソコンの壁紙として貼ってある。縁側に佇むオンブさん。

初めての場所を散歩した。 テクテク歩いていたら道の真ん中に木が生えてた。
これだけの大木を放っておける寛容な道、素晴らしい。

全体像を把握すれば変哲のないアスファルトのヒビなんですけど、じっくり眺めると何かを表現したアートに見えなくもない。 ヒトの手による創作と破壊に自然の風化が加わってしまうとモノは語りだす。 廃墟趣味ってのはこういうことなのかも。

よく通う喫茶店のテーブルに何気なく置いてあった一枚の絵、恐らく絵画の複製印刷だとおもうが印刷でありながらも強い存在感に溢れている。 いったい誰の作品なのだろうか、御存知の方がおられたら是非教えていただきたい。

前回みごと空振りに終わったマタタビの実に変えて、マタタビの枝なるものを手に入れた。 効果はご覧のとおりでオンブの面相が豹変するほどの嗜好性があるようです。 しばらくはこれで遊べるなぁ。

芝生の絨毯にご満悦、しばし猫は猫なりに沈思黙考。 遠くで選挙演説のがなり声。


オンブさんはユラユラ揺れるヒモがお好きなようであります。 勢いあまって二足歩行。

本日も主食である油蝉を召し上がっていたピアスさん。どうも屋根に上ってドタドタやってると思ったら、我が家の象徴である桜の木から蝉を収穫してるようだ。おまえが縁側から離れない理由がわかったよ。
毎日のように新宿をフラフラしてるとこういう場面に出くわしたりする。 取り囲む者たちの妙な連帯感、殺伐とした都市の表層に一時流れる湿気のようなもの。 オアシスだ。

自宅縁側の住人がまた増えた、このニューフェイスに名前を付けなければならない。 さて、オンブ ピアス カフェオレ 新井 ボス ときてコイツの名前を決めかねているのである。 この場を借りて募集してみようかと思う。 ちなみに見ていただければ分かるが耳に歴戦の痕跡が見られる。名前の投稿はコチラ

巨大な渦巻きが接近する予感の朝、忍となったオンブが上がりこんで何やら物色していた。頭かくして尻隠さずとはこのこと。
!!あっ違う。 隠れてんのはオレのほうだ。

オンブよお前はもうあれか、家主か。 最近めっきり遠慮を忘れたみたいね。
でもなんか座布団がよく似合うよ、ただノミがなぁ。
スキャンスキャーンしまくりの一日でした。まだまだ未整理のフイルムが山のようにございます。
本日整理したフイルムのなかに昔の恋人の写真があったので載せときます。
名前を「ルビイ」と言いまする。当時小学4年生。
新宿ゴールデン街に住み着いてる猫達を撮りました。 半ズボンの私はそれはもう薮蚊の餌食、その様を「バッカじゃないの」と見ている姿をいただき。
今日はエライ晴れて暑くて逃げ場のない一日だった。
入道雲も主張しすぎて収集つかないのだろう。

ニュースソースには載らない現実の靖国があることを一体どれだけのひとが知っているのか。
政治家の参拝ばかりが取沙汰され、その麓で起こっている出来事には誰も触れない。
なぜならそこには、我々日本人がアジアの国を瞬く間に敵にまわせるほどの血の通った弱点があるからだ。

只今私は左の耳がほぼ聞こえない。
マヌケな話で、鼓膜が傷つくほど耳かきをしてしまったらしい。
まともな右耳を塞いでしまうと反響するような物音がノイズとして聞こえるだけである。
街を歩き左側で立ち話をしている人があっても、横目にパクパクしている口元が目に映るだけで、右耳からは関連のない雑音だけがやけに際立って聞こえてくる。
実に面白い、極めて写真的風景の連続が私の左側では展開されているわけで、欠落した空間がさも見知らぬ風物を写し取った一葉の写真の如く映像だけを残して過ぎ去ってゆく。恐らく五感を駆使して理解してきたこれまでとは違い、聴力に頼れなくなったことで自分と外界との整合性を失ってしまったのだろう。
似ている。写真とは欠落の表現なのだ。
音を削ぎ落とし、動きを削ぎ落とし、モノクロならば色さえ削ぎ落とす。 その中で封じ込められた瞬間はより一層の意味を視覚に訴えかけなければならない。
否、訴えかけるし、それはごく自然に内包してしまうものなのだろう。
それが写真の持って産まれた存在意義ならば、たち帰るべき源泉もそこにあると、表現のどんずまりで立ち枯れそうだった私は思った。
にしてもこの痛みは困りものです、だんだん首まで痛くなってきました。


猫にまたたびとは昔から耳にするが、この度その諺を立証するべく猫にマタタビを与えてみた。 実験台となったのは性懲りもなく野良猫ピアスである。
かくいう私もマタタビなるものに知識を得ず、何やら正体の知れない、手に取るのもおぞましい物体を想像していたのだが、近所のなんでも屋で買ってきたタバコほどの箱に入っていた中身はどうということのない乾燥した木の実であった。
小指の爪ほどの実からは刺激するような匂いもせず、一粒食べても誘惑を駆り立てるような味もしない。このような味もそっけもないものを食べて涅槃の鳥羽口までいける猫族とは、素晴らしく浮世ばなれした生き物なのだと、ヤツラを待つ間に思ったりした。
しばらく待ち惚けの後、ノタノタと縁側に顔を見せたのはピアスであった。こちらの思惑も知らず暑気にやられたしなだれ顔で縁台に丸まり収まる。さてとマタタビの一粒を鼻先に突き出すもいっこうに興味を示さない、私の予定ではくんずほぐれつマタタビに頬を摺り寄せ恍惚として目尻の垂れ下がる様を思い描いていたのでなんとも拍子抜けしてしまった。
ネコが悪いのかマタタビが悪いのかそれはわからないが、さも絶対にと言わんがごとくことわざまで作った先人の観察力にまで疑いは広がるのであった。とたんにつまらなくなったのでマタタビをピアスの鼻先に捨て置いたまま、ぼんやり「夏だなぁ」などと暇人の境地を彷徨しかなかった私の夏の一ページのお話である。
結局のとこマタタビで涅槃に近づいたのは他でもない私だったのではないだろうか。

ここにきて畑の野菜達が壊滅状態に陥った。
目を覆う三振ショーである。
突き詰めるまでもなく原因は明らかで、秋撒きの種を春に撒くという暴挙がそもそもの間違いであった。
最初から説明書きをしっかり読んでさえいれば、ここまでの不作は回避できていたのだ。 毎度のことながら私の計画性のなさが引き起こした凶作であり、野菜の季節も知らない無知を露呈してしまう結果となった。
上手くいけば盛夏の頃にはもぎたてのキュウリでビール、という計画もジョッキの泡と消えてしまったわけだが、先日友達からもぎたてのキュウリをいただいて昼間っから缶ビールで公園を堪能したのでその件は良しとする。
さて、野菜というのがこれほどナイーブで手のかかるものだと理解した本日、ワタシの想いは。。。。。。
と!ここまで書いていたら今しがた縁側の屋根を何者かが歩く音がした!!。
ネコどもにしては足音がデカイ! すわコソドロかと縁台を飛び降りて屋根を見上げるも姿はない。
不審に思っているとフェンスづたいに気配を感じる、暗闇に目を這わせて気配の正体を見極めたとき一瞬我が目を疑った。
そこにいたのはでっかいイタチ。いやタヌキ。
暗くてよくわからなかったが、どちらにせよ野良としてはあまり見かけない種類である。
我が家は郊外ではあるけどそれほどの田舎ではないし、近くに山があるわけでもない。 それを考えると恐らくはどこぞのマンションで養われていたペットが逃げ出した公算が高い。
高いが、そんなことはどうでもよい。 タヌキはいいなぁ、タヌキが来る家なんて演歌歌手が来るレコード屋よりよっぽど惹きつけるものがある。
だんだん家周辺が野良達のオアシスになりつつあるなぁ、これをノラの箱舟とでも呼びたい深夜の出来事。

神の名のもとにテロリズムがある。
彼等にとっては一元論で語られるべき絶対的な神であるが、世界を見回せば人々に語られる神など数えきれないほどいる。
インターネットを操るイスラム原理主義者がその現実に目をつむり、声だかに主の名を叫ぶのは愚かであるよりも格好ですらある。合わせて西側諸国の聖とつく戦いにも同じことが言えるのではないだろうか。キリストの名の下に幾多の侵略をくりかえしてきた事実は、はっきりと歴史に刻み込まれてある。
そして忘れてならないのは我々日本人が犯した聖戦もまた生き神様の名を掲げていたことだ。
古より争いというものに聖域は存在せず所詮は欲の皮の突っ張ったニンゲン同士の利権争いで、その舞台に主の名を付すること自体が神への冒涜であろう。
布教することに重きを置いてきた宗教ほど争いを好むのをみると、集団の恐ろしさをまざまざと感じざるを得ない。
戒律による執拗な抑圧のなかで彼等は他者(他宗教)に牙をむくことでしか自己の解放をできなくなってしまったのだろう。 聖典を崇め祭る宗教というのは融通がきかないようだ。
世界中の人々の救いの柱となってきた宗教というのは、まかりまちがえば四肢に繋がれた鋼鉄の鎖でしかなくたってしまうということをインターネットを通じて神様に諭していただきたい。
各国、各テロリズム指導者達は今一度幼かった自分自身を思い出してほしいと切に願う。
世界中を羨望の眼差しで思い描いたあのころを
両親の笑顔が全てだったあのころを
寝床がひとつしかなければ分ければいい、そんなことは野良猫でも知っている。
今年も半分を通過しました。 今日の今日まで年男だったのを忘れていた。
まあそんなもんか
なんかそれっぽいことでもあっただろうかと上半期を振り返るに、う〜ん と答えをひねり出す作業に入る。 入った時点で無いのも同じ。
ガキ(いわゆる未成年)が煙草を吸おうが酒を飲もうがいっこうに構わん。 年齢制限の差異など国によっていくらでも変わるし、これだけ物の溢れた時代に上部だけの抑制が機能するはずもないのだからこれはいた仕方ない。
しかし近頃のガキは肝心な境界を踏み越えてしまっていると感じる。
それは法律による境界ではなく、人間社会の骨組みをなしてきた親と子、教師と生徒、近所のオヤジと悪ガキなど数えあげればきりがないが総じて大人と子供の境界をである。
かつては未成年による喫煙や飲酒にも法律に載ってないマナーがあった。 その第一条が「隠れて吸う」こと、第二条は「見つかったら止めたふりをする」ということ。この二つを忘れなければ悪ふざけに類する喫煙や飲酒など、大人になるための通過点としていくらでも許容できる余白を持っていたものだ。
ところが最近のガキはその二つをことごとくないがしろにしてしまっている。 その上自分のすることは大人の責任であるかのように振る舞う術すら身に付けてしまっているから始末に悪い。
このように歯止めの効かない社会を作った我々大人の責任は重大である。
いかようにも変化する子供の柔軟な心をたくみに利用して、拡張一辺倒の商売をしてきたツケが電卓を弾くように回ってきたとしか言いようがない。 世紀末から現在にかけて繰り広げられてきた大人世界と子供世界の癒着は、とっちゃんぼうやの大量生産という形で最悪の結末を迎えようとしている。
しかし自然とは偉大なもので、子供が子供を生んでいく負の連鎖を断ち切るべく出生率の低下というジョーカーを切ってきているのは誰の目にも明らかである。
これだけ快感の赴くままにモノを作くり消費してきた時代のニンゲンが苦難を伴う子育てに興味を覚えなくなるのは自明のことで、自然の法則に従うかたちでコトの収束を図るほかないとこまで退廃してしまったということなのだろう。
マクドナルドが家族の食卓になってしまった若い親子がその絆さえもあっさりとダストボックスに投げ入れてしまうような使い捨ての時代において、我々はそろそろ拒絶することを学び直す必要があるとおもわれる。
新宿へ向かう電車の先頭車両、運転士の背中越しに迫り過ぎ行く風景をあんぐりと眺めていた。
いつもなら左右の手だけでこの怪物を切り回す運転士を見ていると「気持ちいいでしょ」と話しかけたくなる。人情である。 がしかし今日は少し違った。
まだ若いキャリアに乏しく見える青年運転士が、しきりに腕時計の秒針を気にしているのが目に止まったからだ。
先日のJR西日本が引起した脱線事故がふと脳裏をよぎり、運転席で肉片となった彼の青年運転士と目の前の青年運転士の姿が計らずもオーバーラップしてしまう。
子供心に運転士への憧れを抱くことは多くの子供だった大人達が経験することで、その憧れを萎えさせぬまま夢を叶えた人間というのは、無垢で真っ直ぐな心の持ち主である、と同時に一般的に言われる社会性に乏しい側面を合わせ持ってるようにおもわれる。
見下した言い方ではなく、大方の人間がしがらみや世の中の傾向に自分の将来を委ねながらもある程度の力を得てしまえる時代において、彼等の存在は聖者故の弱者なのだと思う。
奇しくも秒単位の運行を強いられるダイヤによって、晴れて運転席に座ったその日に夢を打ち砕かれてしまう青年運転士に対して「気持ちいいでしょ」などとは簡単に口にできるはずもない。
またひとつ日本から聖職の灯りが消えつつある今日である。

袋入り爪楊枝というものがあちらこちらで見られるようになったのは何時の頃からだろうか。 長さ五センチ直径わずか三ミリ程度のたかだかハクソを取るための使い捨て用品である。 それをご丁寧にも印刷まで施して袋づめしてあるのだから芸が細かい。
何故ここまでする必要があるかといえば、ひとつには衛生上の問題が挙げられる。 昨今の除菌ブームに代表されるクリーン思考のまん延をかんがみれば明らかなように、汚れやばい菌に対する人々の嫌悪感がかつての日本人が抱いていたそれとは異なる次元に入ったということだろう。
しかしクリーンブームの元凶を辿れば、これもまたごたぶんに漏れず企業のアジテーションであり。大企業が作り出したムーブメントのお陰で爪楊枝を作るような中小企業が必要以上に消費者を恐れなければならない資本主義のねじれがこんなとこにも起きているのである。
つまるところあんなものがザックリと束になって食堂のテーブルに置かれていたとしてもほとんどの客は何とも思わないのであり、ましてや除菌済みのオシボリで丁寧に埃を取り去り使用する者などいよう筈もない。
われわれの預かり知らぬところで非日常は日常に転換され、あたかもそれが世の趨勢であるかの如く思い込まされているのである。
これと似たような話を最近耳にした。 どうも博多の屋台が排除されつつあるというのだ。
相変わらず短縮的で見通しのわるい役所の考えそうなことだが、これもまた提供される食物の衛生面への配慮とか町並みをクリーンにというようなつまらん都会思考の影響なのである。
他でもない博多の文化を一手にになってきたのは屋台が作り出したラーメンと町並みを程よく猥雑にしてきたあのデコボコなのであり、それを事も無げに抹殺しようなどとは言語道断、お前のカーチャンでべそである。
何故私がここまでむきになるかというと十代の一時期を博多は長浜で屋台引きに携わったからなのだが 長浜という場所は魚市場を所有している、つまりその日に水揚げされた食材を僅か数百メートルの距離で仕入れることができるわけだ。 そんな環境にある屋台が非衛生な食い物など出すわけがない。
よっぽど高級スーパーに並んでる高級魚のほうがトラックだ飛行機だと遠回りで手元に届くのである。
自分の体さえも除菌してしまう空恐ろしい世の中、そのうち800円の除菌サバ味噌定食を食べておつりを除菌袋入りでもらう日もそう遠くないのかもしれない。
「十年前に学生さんが身投げして、不敏に思うた親御さんがアレを建てたん。 結局体は浮かんでこんでな」 岬の売店を守り続ける老人はこう言ったきり口を閉ざした。
横から割って入るように居合た地元の漁師が恋人同士の心中だったと付け加える。
年中吹き付ける海風は容赦なく建物を突き抜け、戸や壁や殺風景な陳列棚を寂しさのエーテルで包み込む。
残りわずかな商品のうちから清涼飲料水を注文し渇いた喉を潤すと一息ついた。
―――――――――――――――――――
その観音像はまるで我が子を喪った父母の心情を代弁するかのよに、遥か下を波打つエメラルドグリーンの海に顔を向けて建立されていた。
陸に生きる者が拝むことのできない不可思議な観音像のわけを旅人は問うたのだった。
あまりにも出来すぎた話にそれ以上聞き出す言葉を失い、 後はただ風の音に耳を傾ける外なかった。
報われぬ熱情を抱えたままあの世で会おうと千切れた命は、一体いま何処をさ迷うているのか。 命を賭してまで手にしたい感情とはどんなものなのか 旅人には分かりかねるのだった。憐れみの情と浅はかだとたしなめる気持ちが入り交じり心は整合性を失なう。
ただひとつ理解したことはあの観音はご利益を与かる観音ではなく、たったふたつの命を見守る為の灯台であり、ひと欠片の骨も残さなかった若者の墓標であるということだ。
恐らく観音像は人の命よりも長くあの場所にとどまるのだろう。 ともすれば物語は風化を辿り、人々に落とす暗い影もいつしか姿を消すのかもしれない。
旅人は想う。その時初めてふたつの魂は観音に宿り、生き惑う匿名の命に手をさしのべる本来の観音に昇華するのではなかろうかと。
あの世に生きる魂想えばその魂は浮かばれぬ。



そこに居たのはボクだった。
誰にでも自分の場所と確信する風景がひとつやふたつあるもので、シンボライズされることのない無名の場所に何かしらの衝動と沈黙を覚えることがある。
それが自己のどの部分を流れるものかは分からなくても、誰しもある種の懐かしさを伴って風景の語りかけを聞くのではなかろうか。それを既視感と呼ぶのならばそうかもしれない。
午後の光線が眩いばかりに雨上がりのアスファルトを照らしていた。
初めて訪ねる図書館までの道のりを太陽に向かって歩いていた。
国道を走る車の列を追い掛けて視線が左に流れたときその風景はじっとボクを見ているのだった、終わった道だった。
国道沿いに張り巡らされた金網フェンスの向こう側、人目に触れるのを避けるように終わった道は少し低い場所を流れていた。
嘗ては往来する人もあったのだろうが現在は荒れ果ててその姿はなく、路面を割ってでる雑草が役割の終焉を物語る。
金網を乗り越え斜面を飛び降り道の真ん中に立つ。 靴底に伝わる潰された木の実の感触、逆光に映える木ゞの揺らめきその一つ一つが自分にとって意味のあることのように思えた。
次第に心は開放されて何時しか確かめるように歩き始める。

太陽が西に傾き風景を赤く染める夕まずめ、駅に向かう風景のなかにポツリと佇むオンブを見かけた。
背中の模様はいつものままであったが、その姿はどこか近寄り難く野良としての気高さを漂わせていた。
「オンブ」と小さく呼んでみたがチラと横目にするだけで直ぐに視線を戻す。
そして意を決したかのように大人の背丈ほどもある金網フェンスをよじ登り、ボクのいない向こう側へと飛び降りた。
オンブはその時、フラリと現れた見覚えのある顔よりも生きるうえで立ちはだかる目前の困難の方を選んだのである。
それを見ていたニンゲンボクはお前にはお前の生活があるもんな、と当たり前のことに改めて気付く。
少なからず切なさを覚えたのはボクのほうで、同時にオンブの強さが羨ましかった。
オンブは依存を許さなかったのだ、ボクにではなく自分自身に。
依存することは楽チンであるしかし生きることが戦いである野良にとっては死を招くほどの弱さを意味する、野良が人間に相入れない印象があるのは受けとる側の問題で野良自身共存するのを拒んでるのではなく、人間が共存と依存を履き違えているだけなのだろう。
取り残されたニンゲンボクは、理由がないというだけで金網を飛び越えることをせぬまま踵を返したのだった。
想えばオンブにだってフェンスの向こう側に理由など無かったかもしれない、ならば尚更オンブを讃えようなどと思い上がった考えも萎えてしまうのである。
逃げてばかりのニンゲンボクは所詮頭を使って考えるだけが関の山の野生を無くした飼い猫なのだろう。
日暮れ間近、夕陽に照らされたオンブの影は長く大きく見えるのでした。
(添付した写真は本文とはなんの関係もないオンブ)


素晴らしい!素晴らしく腰の座る喫茶店を見つけました。
昭和というありきたりな言葉では収まりようもない、おそらくボクの見てきた喫茶店のなかでは最も時代を超越した或いは無視した奇跡の店であろう。
少しだけレポートしてみたい、まずはメニューにバニラシェーキ(幻の逸品)とある
ガットギターに三味線
何故か未開封のビデオテープ4巻
グリム童話の文庫本に永六輔著「嫁と姑」
モディリアーニの複製画と和服バービーの額入りポスター
種子島短筒と書かれた拳銃の模型
作者不詳の半切パネル貼り風景写真(とてもイイ)
大仏のカラー写真
店内のあちこちに散らばるフィギュア
野球観戦でよく目にするプラスチック製のバット、に挿された紅葉の造花
オートバイのタンク
ルイアームストロングとザ・ピーナッツ(ラストライブ!)の90分カセットテープ
初心雛形と題された時代物の大工の手引書
三遊亭ナニガシかのサイン色紙(ギターの弦に挿んである)
オーディオの話ばかりしている客
木片に書かれた「ジャーマン(苦味)330△本来コーヒーはこうあるべきです」と店主からのメッセージ(忠実に再現)
これまたアコギの穴ぼこに挿し込まれた物差し二本
極めつけは定番のガロ増刊号とのらくろのヌイグルミ(わからないヒトはお父さんに聞いてね)
と、とりあえず以上を抜粋してみたがこんなものではありません。まさに混沌、阿鼻叫喚です。
時間を忘れて店内を見回していたところ注文したアイスミルクコーヒーなるものが登場した。一口飲んでビックリ物凄く甘い、甘いコーヒーの苦手なワタクシすぐさま甘くないヤツ下さいと追加注文。
ジャーマン(苦味)なんじゃないの、とおもいつつ顔は笑顔で。
ナチュラルトリップなひと時を味わい再びメニューに視線を這わせたところ注目すべき点に気づいた。食い物がないのである。
強いてあげればアイスクリームコーヒーゼリーでそれ以外は全くの飲み物だけなのだ。 またしても店主からのこだわりのメッセージなのだと手前勝手に解釈、「メシが食いたきゃよそに行け」という頑固親父の手荒い歓迎であった。

降る雨
空豆の力強い若葉は天を指し、注がれる雫を葉から茎そして土中の根へと行き渡らせる。簡素で解かりやすく完璧な生き様、自然を味方につけ己を自然の一部とし尚且つそれで足るものとする。
もしも人間がそのように生きれるのなら、
傘を閉じ両手を広げて雨を愛しむことができるのならば多くの心は救われるのだろう。
本質はすべてひとつに繋がるのである。
ヒトはヒトとして自然は自然としてあるのではなく、ひとかけらの細胞や原子の集合体としてたまたま心を持ったり持たなかったりしてるただそれだけのこと。 普く存在は物質としての宿命を背負わされているはずなのだ。
模倣すべきは空豆の風景にある。

小泉さんはホント口が軽いなぁ、このままだと日本は確実に孤立しちゃいますよ。
中国の副首相が会談をドタキャンしたのも外交手段としてはホトホト呆れるくらい子供じみた戦略ではあるけど、それに対する小泉さんの発言は輪をかけて未熟さ丸出しの陰口に類するものだった。
陰口は陰で叩けばよいものをあのヒトはテレビカメラを通して世間話を全世界に発信してしまうから困ったものである。おそらく小泉純一郎というひとは一国の代表としての理性より坊ちゃま育ちで培われた個人的感情のほうを優先したいのだろうが、そんなことをしていたらわが国はあっとゆう間に潰されてしまうだろう。
アジア諸国を見下した発言を続ける小泉さんのせいで世界的に肩身の狭い思いをするのは他ならぬ私たちなのである。
郵政民営化なんて結局は金の話に過ぎないのです。それよりも金で買えない人間同士の信頼関係こそが21世紀における我が国の一番の課題なのだと、それぐらいの発言のできる切れ者があのヒトの取り巻きに一人ぐらいいないものだろうか。
小泉さんの上昇志向は金持ちパーティーに群がる権力信仰のアホどもと変わらない。

どうも我が家はネコ屋敷となってしまったようです。日を追うごとに新顔がいます。
別に餌を与えているわけでもなく優しく手招きしているわけでもないのに、ヤツラは夜毎集まってはケンカしたりじゃれ合ったり野良猫祭りを繰り広げる。
随分前に聞いた話であるがネコ達には夜中に集まって座談会を開く場所があるらしい。まさかそれが我が家ではないよねオンブ。
写真は今晩の会議風景、議長席にいるのがオンブ。

女に産まれた不幸を知っている、公衆トイレに列を成すあの光景を知っている。
デパートのそれに高速パーキングのそれに、女たちは内股を摺り寄せながら行列の動くのをひたすら待ち続ける。
待って待って産み落とされる分身に恋焦がれ、排泄という人間の生理に恨みすら抱く。
憐れ女たちよ。
嗚呼しかし女たちよ、不平を言いながらも時が来るのを待つ貴女方の姿が愛しいのだ。 我々男子は危機を迎えた貴女方を鼻で笑いながら、有り余る便器に安堵を覚えるのではない。けして。
見たまえ、あられもない醜態を晒しながら男子便所に駆け込んでくる醜婆の眼差しを、口を、必要以上に大きな身振りを。
その行動に用を足す者は肝を冷やし、またある者はそそくさと路を空ける。 総じてオスとしての尊厳を忽ち打ち砕かれるのである。
聖域を侵されたオスほど情けない存在はない。皆一様に婆の僕となりてコトの成り行きを見守るよりほかないのである。
最早オスの世界に野生はない。
だから
だから貴女はそうなってはならない。
清く正しくあれと望むものではない、恥らってください聖域を持ち続けてください。
なれば男は貴女に恋をするのです。

オンブのやつぅぅぅぅ!部屋に上がりこむだけではモノ足らず遂に畳にオイタをしていきやがった。
目をウルルとさせてじっと座ってるとおもってたら立ち上がった畳が濡れておりました。もうダメです、説教です。 ニャ〜というまで正座で説教かましてやる。
次号「オンブは説教にニャ〜と鳴く」に続く。

いつもの煙草を買いに行って驚いたことがあった。
写真を見ていただけば判るように喫煙者に危険を促す警告文がパッケージの半分近くに印刷されている。おわかりのことと思うがこれはJT側が理不尽な客を封じ込めるための言い訳文にほかならない、煙草が害を及ぼすなんてのは百も承知で誰もが吸っている筈で、例え喫煙が原因で病気になろうともそこは自己責任の範疇なのである。
しかし企業がこれほどの危機感をもって消費者を恐れるのは、戦後日本が歩んできた欧米化による弊害が末期にさしかかっている証拠であるともいえる。
やれコーヒーが熱くて火傷をしたから裁判だの、甘いお菓子を食べ過ぎて太ってしまったから裁判を起こすだの呆れるのを通り越して気持ち悪い話だが何れそんな輩が話題になるともかぎらないわけだ。
企業は消費者との信頼関係を絶って駆け引きでモノを売る時代になってきたのだろう。我々は冷たいルールに縛られながらもモノを欲して買い求める消費の猿へと遅行するのだろうか。
先日の日記にも書いたとおり自宅の縁側に住み着きつつあるオンブのその後であるが、なれなれしいのも度を越して私が机に座って作業をしているといつの間にか椅子の下で丸まって寝ている始末。
ネコというのは如何せん足音を立てない動物なので、知らぬ間に家中あちこち肉球の跡がペイントされていたりする。そもそも扉という扉を開け放して生活している私にも責任があるのだが、もうすこし遠慮というものを覚えて欲しい。とおもう。
さて、そのオンブが仲間を引き連れてくるようになった。
名前をピアスという。
何故ピアスなのか、実はそのネコほんとにピアスをしてるのである。恐らく嘗ては飼い猫として身をやつしていたのであろうその名残が痛々しく耳に残っている。
ふたりは仲が良い、夕方近くに連れ立って縁側に顔を見せる姿はしみじみと風景を和ませる。じゃれあったり寄添いあったりなんともピースな関係なのだ。
本日のオンブとピアスの写真を添付ちなみに手前がオンブ。背景はmy畑。


夜中布団のなかで例えようもない不安に襲われるときがある。
限りある命への不安だったり、結局人間はヒトリなんだと思ってみたり考えても仕様のないことで背中を円くする。
生まれたのだから生きなければならない
生きていれば死ななければならない
これだけ理にかなう世界にいながらつまらぬことで心を波立たせてしまうのは、やはり人間が退廃をはじめたからなのだろう。
本日縁側の先では一頭のアゲハチョウと無数の蟻と3匹のネコと、モモの木には2羽の名も知らぬ小鳥と買ってきたナスの苗木と蒼い空と撫でるような風が吹いている。
そこに時間という観念は希薄であるようにおもえる。
目を開けていればいいのだ。

最近一匹のネコが自宅に住み着きつつある。はじめは恐る恐る遠巻きに縁側で寝そべるワタシをみていたのだが、対象に敵意のないことを見止めたのか一昨日には縁台に上がってパソコンをいじるワタシをじっと眺めていた。
よく見るとなかなかの美人で、さかりを終えた落ち着きがイイ女の雰囲気を醸し出している。
野良に名前とは失礼な話だが、野良と呼ぶのも失礼だとおもい暫し思案の後背中に赤子を背負ったような模様があったので名前を「おんぶ」にした。
彼女は界隈のオスどもによくもてる、連日おんぶの背中を追いかけるオスネコが後を絶たないのだ。 なかでもしつこい輩が毛足の長い大柄なヤツで、おそらくこのあたりのボスではないかとおもわれるが引っ掛かれようが無視されようがいっこうにへこたれない。男の鏡かストーカーの一歩手前かである。
人間の世界ならばへこたれない男というのは栄光を掴むことがままあるのだが、いかんせんボスネコよおんぶは孕んでしまっとるのだよ。最近産み落とす場所を落葉の山に決めたとみえてすっかり落ちついとるからね。
(おんぶの教訓)
オトコは引き際が肝心ね。

良い天気でした、ほんとに。
日中ヒマを持て余していたワタシは思い余って畑を耕してしまった。というのも自宅向かいにポツンと空いた大家所有の更地が気になって、ある時直接大家に聞いてみたことがあった。
「野菜作ってイイですか?」と、老齢の大家は即答で快諾してくれた。
なので遠慮なく鍬とスコップを購入していたのだが今日まで延び延びになっていたのだ。
やってみるとこれがなかなかの力仕事である、まずは踏み固められてしまった地面をある程度まで掘り下げなければならない。
本業が使うような両手で扱う鍬などではなく、家庭菜園用の片手鍬での作業だったので3,40センチを満遍なく掘り起こすのにかなりの時間をようしてしまい、たわわに実る野菜たちへの希望も7割がた目減りしてしまった。
それが終わると用意していた石灰と混合肥料をふりかけ行き渡るようにしつこくこねくりまわす。最後に幾筋かの畦をつくって今日の作業を終了した。
これから種を蒔いて生まれ出る芽に一喜一憂をし、さらに雨風に気を使い、幾月かを経てどれほどの収穫を得るのだろうか。農業は大変なのである。
夕方から私用で駅まで行く道すがら、八百屋の軒先に積まれたきゅうりの値段が35円だったのに初めて憤りをおぼえた。いつもは「安けりゃイイや」ぐらいに思ってたくせにね。
(今日の教訓)
きゅうりはやる気が失せるのでやめておこう。

長らくのお休みいただきまして体も頭も鈍りに鈍っております。
製作途中にて公開してますのでトンデモナイページに飛んでしまったりすることもあるかと、
そのときはなんとかして戻ってきてくださいね。
さて新しいHPの概要を説明しますと基本的には写真を軸とすることに変わりありません。お休みの間撮りためた作品を小出しに掲載していくつもりであります。
只今急ピッチで作業を進めておりますが、急いでいるのは気持ちだけなのでパソコンに向かうといつもマインスイーパを始めてしまいます。だめなワタシです。
というわけで、とにかく発進しました。発進してしまいました。
みなさまに飽きられぬよう面白い作品を撮ってまいりますので、どうぞよろしくお願いします。
これまで見捨てることなく待っていていただいたみなさん、本人不在の折リンクまでしていただいたみなさん
ホントにホントにありがとう。
